日本単独の宇宙開発は完全に無駄【「はやぶさ」の帰還】

日本単独の宇宙開発は完全に無駄でしょう(´Д`)y-~~
まあ予算はたったの年間約2千億円で、NASAの10分の1ですが。


しかしながら先端技術云々とか抜かす阿呆な論調が多くて腹が立ってます。日本の国家財政の破綻っぷりに全く言及していないという点です。


特に下記の産経新聞の記事の阿呆っぷりはヒドいです。このレベルで記者なのだから全くもって恐れ入ります。


更には気持ちの悪いアンケートもあります。
はやぶさ2予算増額の嘆願署名
http://www.shomei.tv/project-1562.html


そもそも宇宙開発は軍事開発でありました。いわゆる大陸間弾道ミサイルの開発ですね。しかし、もはや弾道ミサイル研究は終わっており、国家の威信をかけた開発競争も終わっております。
宇宙開発はコスト度外視の無茶な最先端研究だからこそ、国際宇宙ステーションなんかがあるんでしょうが。


そもそも日本の技術なんてアメリカやロシアのはるか後塵を拝しています。日本が貢献できるとすれば、ミニマムなコストで、という方法論くらいでしょう。日本の技術は、先端技術でも何でもなく、ただのノウハウの蓄積でしょう。そういう意味では日本は自分たちにできる範囲で地道に宇宙開発技術を磨き、出来ない分野はアメリカやロシアを最大限利用すればいいのです。


http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100620/stt1006201801003-n1.htm
安藤慶太が斬る】はやぶさ帰還と事業仕分けに思う  2010.6.20 18:00
 感動したなあ。「はやぶさ」の帰還。私も7年以上前になるが一度だけ「はやぶさ」の打ち上げの意義や夢を記事にしたことがあったので実に懐かしかった。当時は「はやぶさ」という名前は決まっておらず「ミューゼスC」と呼ばれていた。小惑星にも「イトカワ」という名前はなかった。7年も前に記事を書いただけで、なんだか自分までいい仕事ができたような気でいる。「ありがとう、はやぶさ」という思いである。


■愛機を称える光景
 印象的だったのはJAXAの方々の「はやぶさが頑張ってくれた」と自分たちの偉業を大気圏に燃え尽きた愛機の頑張りとして称(たた)えていた姿だ。何とも日本人らしい美しい光景だった。
 外国にもそういう現象はあるのかもしれない。しかし、「はやぶさ」をJAXAはじめ、「たとえ燃え尽きても戻ってきてほしい」と固唾(かたず)を飲んで見守った日本人たちは「はやぶさ」をただの機械の塊、小惑星探査機としては見ていない。感情移入が強いといえばそれまでだが、ただの機械ではなく自分たちの英知と魂、そして夢と願いを背負った、自分たちの挑戦を支える分身としてとらえている。
 イトカワへのタッチダウン後、「はやぶさ」との通信は途絶え、関係者の気持ちをやきもきさせたそうだ。ところが、「はやぶさ」は約3カ月後自ら地球に連絡を取ってきたのである。そういう設計になっていたといえば、これまたそれまでの話だ。が、こんな話を聞くと、私だって断固「はやぶさ」がいとおしくなる。以前、「はじめてのおつかい」を見て感動してしまったのと同じ思いがこみ上げてくるからである。


■挑戦の意義
 幼子が近くのスーパーマーケットに出かけ、母親から頼まれた品物を買って無事帰宅するまでの悪戦苦闘を描くこの番組、自分に子供ができるまで面白さが心の底からは理解できなかった。寄り道あり、災難あり、ど忘れあり、涙ありと波乱の連続で家に帰り着いたときには母親の注文に正しく応えられず、母親の胸で泣きじゃくる子供もいる。肝心の品物がぐちゃぐちゃになっていることもある。でも、その失敗は挑戦というミッションの意義と比べれば、微々たる出来事だよ、というのが番組に通底した主張である。
 イトカワのサンプルにも同じ思いである。サンプルがなければ、誰かが必ず、ケチをつけはじめるかもしれないので、あらかじめくぎを刺しておく。私もサンプル採取の成功をむろん願っている。しかし、だが、サンプル採取ができなかったからといってそれは無駄ではない。


事業仕分けの論理
 なぜ、こういうことをいうか。それは「事業仕分け」の論理を多くの人に考えてほしいからである。事業仕分けのもつ、成果主義功利主義、実益主義が科学技術の領域に持ち込まれすぎており、国力の減退を憂慮するからだ。
 例えば「はやぶさ」の帰還がこれほどまでに盛り上がらず、サンプルが入手できずに終わった場合どうか。「採れなかったんですか。いくら税金がかかると思っているんですか。無駄です。廃止!」といった仕分けの光景が目に浮かぶのだ。
 「はやぶさ」の後継機への予算は現に削られている。当初、概算要求は17億円だった。これが昨年の政権交代で5000万円に削られた。科学技術予算は環境重視に資源配分が見直されたと説明がされているが、高校無償化で巨額の財源が必要な結果、あおりを受けたものといえる。
 5000万円の予算はさらに昨年11月の事業仕分けで3000万円に削られた。無茶苦茶(むちゃくちゃ)である。今回の「はやぶさ」の成功で、「宇宙開発の意義を否定したわけではない」といった釈明が聞こえてくる。が、議論全体を見るとどうみても極めて短時間の矮小(わいしょう)かつ乱暴な議論による一刀両断といわざるを得ない。


■無定見な復活発言
 もうひとつの問題は「はやぶさ」の成功で蓮舫氏はじめ閣僚から次々と予算復活に向けた発言が相次いだことである。予算が復活するならそれ自体は結構なことである。しかし、同時に民主党政権には宇宙政策に定見がないと疑義を抱かざるを得ない。
 予算復活といっても、17億円が約束されたわけではないだろう。恐らく、お茶を濁す程度の増額に過ぎないし、もしかすると、他の科学技術予算を削って付け替えて済ますかもしれない。要は他の研究テーマを犠牲にして、はやぶさ予算を埋めあわせ、批判を浴びないように手当すればよい、という程度にしか彼らは考えていないのではないか。こう思えてならないのだ。


■これでは何もかも無駄
 今回の「はやぶさ」の成功は多くの無駄によって支えられているはずである。イオンエンジンの開発ひとつ見ても、2年以上にわたる連続運転試験などを経ている。これ、ひとつ取り上げても無駄と決めつけることは可能だし、どうにだって難癖がつけられるのだ。早い話、イトカワのサンプルによって、太陽系の起源が日本人の手によって解明できたところで「だから、何なのよ!」と言われてしまえば無駄になってしまうし、「2番じゃダメなんですか」というのもこれと全く同じ発想である。
 科学者にだって税金である以上、コスト意識を求めるのは良い。だが、無駄といえばどんなものでも無駄と判定できる。事業仕分けのはらむ危険性をもっと彼らは認識すべきである。


■一口に無駄と言っても…
 「明るい選挙推進協会」なる法人がある。ここも本来は国の事業を委託して仕事をしているのだそうで、選挙啓発というテーマだって全く公益性がない話とは言い切れない。
 政治不信の高まりで選挙自体が低投票率にあえいだ場合に、選挙という事業の意味や意義をしっかりと国民に伝える仕事の公益性を全否定することはできないはずである。
 しかし、選挙が近づくたびに「投票は7月11日!投票に行きましょう」と書かれたティッシュペーパーを配る運動はどうか。これは多くのボランティアによって支えられているのだそうで、地道と言えば地道だが、これに例えば多額の税金が使われているのであれば、これを「無駄!」と断ずるのは、何となく共感できる。
 私がいいたいのは、これと意義のある科学技術予算の開発過程のトライ&エラーを無駄と断じるのは同じ無駄でも似て非なるものだということだ。事業仕分けの問題は、こういう微妙な違いをフィルターでふるいわける制度的な担保に乏しく、乱暴で一刀両断が過ぎる点にある。


イトカワの警告
 科学技術は何代にもわたる研究者の英知と挑戦の積み重ねで実を結ぶものだ。宇宙もそうだが、未知は至る所に転がっている。世界各国はそうしたことを熟知して精鋭を投入して挑戦を続けている。とりわけ中国の台頭は、「サイレント・スプートニク」と呼ばれ、世界中の脅威となっている。世界中が挑戦を続けるなかで日本だけが真逆の方向に科学政策の舵を切ろうとしており、世界が不可解に思っている。技術立国、ものづくり立国は今重大な岐路に立たされているのだ。
 小惑星イトカワの語源となった、糸川英夫氏は国民の圧倒的人気を誇る、わが国を代表する名戦闘機「隼」を設計した人物だ。
 占領政策で日本の航空機技術は壊滅的打撃を受けた。しかし、糸川氏は空への夢を最後まで捨てなかった。まだ国家が十二分に宇宙開発に眼を向けなかったころから、その必要性を認識し、関係者を口説いて貧相な研究条件を乗り越えながら、ペンシルロケットを開発し宇宙技術を切り開いた。
 小惑星イトカワ」への「はやぶさ」のサンプルリターンとは、「宇宙開発の父」の思いを継ぐ後継者たちが、時間の流れを経て「隼」と「糸川」を引き合わせたということである。科学に対する政治の無理解、さまざまな逆境…そのなかでも資源の乏しいわが国の行く末を案じ、夢を捨てず挑戦を続けた不屈の科学者。わが国が国家として生き抜いていくには科学技術で国力を生み出していくしか道はない。今回のはやぶさの帰還は、私たちにそのことを再認識してほしいと言っているように思えてならない。


民主党政権の無駄
 さきほど述べた明るい選挙推進協会の話のついでにもう一言述べたい。昨年の事業仕分け参院選を含む選挙予算557億円が仕分けの対象となり、大幅な削減が求められた。それを踏まえて平成22年度予算編成は選挙費が大きく圧縮されている。すでにこれは国会の議決で成立している。
 ところが予算というのは法律と連動している。法律で「これだけ国が支払いなさい」と記載があって予算に計上されている場合もあって、予算計上額を数字で減らすだけでは不十分なのだ。同時に法律を改正しなければならない。
 選挙の場合も同様だ。地方選管でかかる選挙費用は国で面倒を見ることになっていて「国会議員選挙執行経費基準法」と呼ばれる法律でその額は機械的に算出されるのだが、その改正案は、廃案となってしまった。
 それは、鳩山政権に代わって、支持率をV字回復させた政権与党が選挙を急ぎたいとの思惑から、参院での審議をなしで国会を閉幕してしまったためだ。
 そもそも予算に計上された選挙費について地方選管からは「無駄をなくすというのは理解できるが、予算枠に収めるのは厳しい」という声があった。改正案が廃案となり、改正前の法律に基づく金額を国が支払う義務は依然残っていて、地方の都道府県選管では「無駄遣いをしようとは思わないが、国会で通した額以上に経費がかかった場合に国は法律に基づききちんと支払ってくれるんでしょうね」という声が相次いでいるのだそうだ。
 計上された予算額と法律で国が支払うべきと決められた金額の差は何と81億円にものぼるのだそうだ。総務省の政務三役の一人は「無駄遣い見直しの一環で選挙経費を削ろうとしたのに肝心の法律がない。せっかくの節約がふいになりかねない」と悔しがったそうであるが、明らかに失態である。地方の選管関係者からは「予算と法律は連動している。これは行政の鉄則だ。総務省も困っているだろうが、こんな選挙は初めてではないか。本当にしっかりしてくださいよ、という思いだ」という声を聞く。地方自治体からばかにされる光景で一体、これのどこが「ガバナンスの利いた仕事大好き内閣」(仙谷由人官房長官)なのか。
 事業仕分けのあり方に私は大いに疑問を持っている。だが、百歩譲って、あれだけ大騒ぎして選挙の無駄として81億円洗い出して予算を通しておきながら、裏付けとなる法改正をしないのは、プロの政治として怠慢だし、お粗末だし、矛盾だらけで許されないだろう。こういう光景こそ民主党にまずなくしてほしい無駄である。「はやぶさ」はじめ事業仕分けで無念の思いをした人、国民から見て、政府与党によって生じた81億円という無駄になりうる税金が果たしてどう映るだろうか。ガバナンスを担う者として胸に手をあててよくお考えいただきたい。(社会部専門職・安藤慶太


安藤慶太
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%C2%C6%A3%B7%C4%C2%C0
産経新聞・社会部記者。月刊誌「正論」編集部員。
その偏向報道ぶりは、ポスト阿比留といわれるほどである。