『一般意志2.0』(東浩紀)〜読まずに書く書評(その1)

既に書評が出ているようだし、そもそも私はフランスポストモダン系の
役立たずで自慰的哲学者や批評家・研究家(東浩紀など)が大嫌いなので、
朝日新聞に掲載されていた斎藤環精神科医、この人もたいがい胡散臭いが)の
書評を参照して「一般意志2.0」について適当な文章を書いてみようと思います。
http://p.tl/_8yt


斎藤によれば、東の主張する「一般意志2.0」とは、
・データベースのこと
・抽象的な概念に過ぎなかった「一般意志」は、
 コンピュータ・ネットワーク上で「一般意志2.0」として抽出可能になった
・人々の「集合的無意識
なんだそうだ。


ズッコけました(;´Д`)


ルソーの「一般意志」と「全体意志」の違いについて
東は、理解していない・無知なんだ、と言わざるを得ません。

フランス語では、
"Volonté générale"が一般意志、
"Volonté de tous"が全体意志となります。

「一般意志」が社会契約という抽象に基づく共同体の意志で、
「全体意志」は個々人の特殊意志を集めた意志(集合知みたいなものか)です。
ルソーの原理を普通に解釈すれば(議論はあるようですが)、
いくら世界がネットワーク化しようが、データベースが整備されようが、
抽象的な概念である「一般意志」は抽出されようがありません。
データで分かるのは単なる多数の集合知の集積と統計結果に過ぎません。


このあたりを押さえておかないと、
フランス革命時においてロベスピエールサン・ジュストが行った
ジャコバンの恐怖政治の原理(全体主義の一つの起源)についての
一般的な歴史認識すら大きく変更せざるを得ないのですが、
東はそこまで考慮しているのでしょうか?


サン・ジュストは、ルイ16世を断頭台に送る演説において
「一般意志」と「全体意志」を巧みに混同して用いました。
(ここからはカミュの『反抗的人間』の受け売りですが)


仮に国民の大多数(=「全体意志」=「万人の意志」)が、
王の罪(王が国民の主権を簒奪していたこと)を許したとしても、
社会契約に基づく「一般意志」では
王の罪を決して許すことは出来ない、というのです。


王はあくまでも<抽象的>な意味での<国民という共同体>の外にいる存在であり、
王の存在自体が、国民の主権を簒奪するという絶対的な罪を犯している以上、
所謂通常の裁判で王を裁くことは出来ない、とサン・ジュストは主張します。
従って「一般の意志」を体現している「国民公会」が
王を裁くという結論に至ります。
 ※ここで国民から立法権・行政権を委任されているだけの国民公会
  つまり「全体の意志(万人の意志)」を執行しているに過ぎない機関が
  「一般意志」を現すものとして主張されているのです。
彼はルイ16世を「我々の間では異邦人であるルイ」と呼びます。
終始一貫してルイ16世を「一般意志」の外にいる存在とみなしているのです。



ここまで書いてくると、東の「一般意志2.0」とは
きわめてナイーヴな代物と言わねばならないでしょう。
こんなコンピュータ・キモヲタ的な発想・前提から政治が生まれるとするならば、
それはインターネット衆愚政治でしかないと私は思います。


というか、既にネットはTwitterSNS、ブログによって
素人臭い仮想政治論争の場と化しているのだし、
今さら「一般意志2.0」だなんて、
既に忘れられた「Web2.0」を想起させるだけの言葉遊びに過ぎません。


ポストモダン系の「学者」センセーは
テクノロジー信奉(科学主義)が相変わらずだと感じた次第です。
 ※ ウィキペディアなのであくまでも参考に
   ソーカル事件 http://p.tl/UBjk
   科学主義   http://p.tl/9Akk