絶望者の教理問答【8】"私"の存在の意味

悩みは尽きない。
存在とは何なのか、私という存在者とは何なのか、私の実存とは何なのか。
分からないから分かろうとするのだが、存在の謎は永遠に謎のまま。


この謎について悩むことそれ自体に意味があるのだろうけど、
果たしてそれが「幸福」につながるのか?
意味があっても、幸せになれないとしたら、人間の生の意味は何なのだろうか。


意味がない、答えがない、
そういう問いをニヒリズムニーチェは述べているが彼は甘ちゃんだ。
なぜなら「他者に答えを求めている」から。
ニーチェ信奉者は更に甘ちゃんだ。)
老荘無為自然は、人間の理性の敗北宣言だ。
仏教の救いも自己から乖離した何かに根拠を置く思考だ。
ヤスパースの包括者もそうだ。
理性の限界を超えたところに至りながら、
そこから逆行して超越者(包括者)に自己の存立基盤を委ねている。
しかしこれらは、実際に人間が生き、苦しんでいる現実の前では、役に立たない思考だ。
いずれも人間の精神と生き方の敗北でしかない。


結局は、人生の意味は、ほとんど見込みのない可能性へ
賭けることの繰り返しなのかもしれない。
それが常に無理・無駄に終わるとしても。


逆に考えてみたい。
意味がないとしたら、存在など存在しないだろう。
ライプニッツの「予定調和」的な在り方ではなく、自己に問い続ける在り方だ。
全てが不可能で無意味というニヒリズムの果てから、
何らかの可能性を自己の責任において引き出すこと、それ自体が意義なんだろう。
つらいけど。


可能性が全くないとしても、現に"私"が存在している以上は、賭けるしかない。


意義や意味を自己以外のものに求めるのではなく、
おそらく求められること自体そのものが人間には課せられている。


ただしその要求を発する主体は誰なのか。
多くの人はそれを神(超越者)と呼ぶのだろう。
しかし、人間の生きる意味を求める者が、人間を超越する者であるとはおかしな話だ。


やはり人間の実存そのものが生きる意味を求める主体ではないのだろうか?