児童ポルノ規制と二次元表現規制

これは私の思考の大前提だが、当然ながら児童ポルノ自体には反対である。
重大な人権侵害に他ならないからだ。


児童ポルノ禁止法:改正案の課題 与党と民主、異なる「単純所持」定義
http://s02.megalodon.jp/2009-0720-1025-23/mainichi.jp/select/wadai/news/20090720ddm012040023000c.html


ただ危惧するのは、その規制が、表現規制につながってしまうという恐れがあるという点だ。


日本ユニセフ協会という"実は国連のユニセフ傘下の団体ではない"怪しい団体がこの「児童買春・児童ポルノ禁止法」改正に当たってロビー活動をしているが、気味が悪い限りである。


自民党内での改正推進派は山谷えり子高市早苗である。この顔ぶれから見ても分かるとおり、改正推進派は、むしろ表現規制を奨励しているかのようだ。こいつらのいう「有害」というのは、こいつらの価値観にそぐわない存在を指しているだけである。本人達にその自覚があるのか、ないのかは、別にしてだ。


ところが、こうした勢力に対抗する反・児童ポルノ法改正の人々の考え方の土台・基礎に幅があり過ぎるのが、残念ながら現実である。ぶっちゃけて言えば、「人権擁護法案反対」とか「外国人参政権反対」とか、そういう極めて狭量で排外主義的なことを騒いでいる有象無象どもと同様の手合いがウジャウジャいる「だけ」なのだ。自分達の「愛する」美少女エロゲームまでも規制される恐れがあるから反対、という極めて単純かつ自分勝手な動機で蠢いているのである。現状では「自分達の趣味だけを優先して守れ」という子供じみたアホなわがままにしか見えない。


こういう有象無象どもは、ポルノとして「趣味が悪い」としか思えない"表現物"があるという事実には目をつむり、自分達の利益しか考慮していない。ポルノに不快感を抱く人が少なからずいるという現実にまで思いを至らせていない。


彼らは、日本における「チャタレー事件」〜「四畳半襖の下張事件」〜「サド裁判」等、こういう歴史的事例をおそらく知らないだろう。


例えば、サドの諸著作は今は「芸術」として認められてはいるが、単なるポルノグラフィだし、改めて読んでみても文学としての価値はあまり高いとは思えない。ドストエフスキーの『悪霊』の中で削除されたとされる部分の方が恐ろしく卑猥で深い。バタイユの作品は悪趣味の極地だが、文学や思想としては非常に面白い。こんな議論は、反・児童ポルノ法改正の人々の間では全くできていないだろう。


児童ポルノ法改正については、「表現の自由」の問題という権利としての問題というよりも、「人間の欲求はどこまで許されるのか」という倫理的な観点から考えても良いのではなだろうか。


もう少し倫理的な見地から児童ポルノの問題を考えると、小難しくはなってしまうが、もっと本質的な議論、つまり法哲学(法理学)、法学、人間の欲求はどこまで許されるのか、といった突っ込んだ議論ができるのではないだろうか。