絶望者の教理問答【1】

ニヒリズムに私は病んでいる。
その矛盾と自家撞着を自覚していても、どうにもならない。


キェルケゴールについて、昔から疑問に思っていたのは、
神への信仰を持っていながら、「不安」や「絶望」という思考を持っていること。
神への信仰があるのならば、当然のことながら、
「不安」にも「絶望」にも必然的に「救い」があるはずだ。
それがキリスト教の信仰ではないのか。
彼の不安や絶望は、結局のところ「救済」を前提としている。
そうでありながら、何ゆえあそこまで憂愁孤独に沈み込んで、
当時のデンマークキリスト教信仰を攻撃したのか、
そして、あのヘーゲルの非合理的なほど合理的な絶対的観念体系に
執拗に抗したのか、その意味が分からない。
信仰こそ絶対者を基底としているのではないか。


そもそも「信仰」こそが、非合理的なもの、ではないか。
テルトゥニアヌスの、"Credo, quia absurdum." である。


熱烈な信仰心を持っていた人物で、
私が親近感を持つのはドストエフスキーである。
彼の神への信仰に対する疑問の提出の仕方が激烈だからだ。
無辜の子供が死ぬような世界に、神は存在しない、
神が存在しないのならば、人間には全てが許されている、
神が存在しないことを証明するために、自殺する、
このようなニヒリズムに私は圧倒される。


大げさな言い方をすれば、
現在に至るまでの私の形而上学的な煩悶にはこのニヒリズムの超克がある。
マックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』を熱心に読んだのも、
ニヒリズムを克服し、個人と個人とを結びつける紐帯を見つけ出し、
そこから真に人間的な社会形成の可能性をさぐること、
個人主義アナキズムの現代的意義の見直しをはかりたかった。
それは今も考え続けている。


ニヒリズムというと、
世間ではショーペンハウエルキェルケゴールニーチェばかりが
評価されているのも疑問を持っている。
贅沢な御馳走を食卓に並べて自殺を賛美したという
ショーペンハウエルには嫌悪感しか抱けないし、
キェルケゴールの信仰の救いを前提とした絶望も疑問であるし、
ニーチェの他者を圧迫する力学に基づく哲学には反発しか考えられない。



埴谷雄高が『死霊』の「自序」において述べたような
  虚妄と真実が混沌たる一つにからみあった狭い、
  しかも、底知れぬ灰色の領域であって、厳密にいえば、
  世界像の新たな次元へ迫る試みが一歩を踏み出さんとしたまま、
  はたと停止している地点
に私は相変わらず沈んでいる。